平成23年11月 5日(土):初稿 |
○「私が最も苦しんだ試験ー司法試験口述試験の想い出」に、昭和52年10月18日の私の日記「13日ぶりに記録をつける。10月5日最終日の心理学を失敗し、口述試験の恐ろしさをいやという程、思い知らされ、発表が不安でたまらなかったが、何とか切り抜け、10月8日無事最終合格者に名を連ねることができた。」との記述を掲載していました。 ○昭和52年10月8日は土曜日でしたが、この日の日記には何も記載がありません。この日は東京に発表を見に行っており、記述出来ませんでしたが、翌日以降17日迄僅かずつですが、記載がありました。 10月9日 上野発2時の特急で帰路につく。2~3日東京に滞在する予定だったが発表を見て安心したら急に早く家に帰りたくなった。9時15分頃気仙沼に着くと、S、K、Saの3人が迎えにきていた。さらに、八瀬のY校長先生まで夫婦で、うちのお袋を連れて迎えに出てくれた。ありがたいものである。 10月10日 一日中ボサッとしていた。 10月11日 午前中、三陸新報のMさんが取材にきた。時を同じくしてSk氏も来訪。 10月12日 夜、Krと飲む。 10月13日 ギター研究会へ。夜、仙台の小野寺信一さんにTEL。Sz氏にも。 10月14日 受験仲間(Sk、Ot、Ok各氏)で祝勝会をしてもらう。 10月15日 バドミントン仲間Aちゃん、Stさんの結婚を祝う会。 10月17日 大島小野寺さんの実家へ。御礼にあがる。 ○昭和52年11月11日三陸新報のMさんから取材を受けた内容が、翌12日付記事になりました。 内容は、当時でさえ、恥ずかしい限りの記事ですが、恥も外聞もなく公開します。内容は事実半分、事実に反する部分半分でしょうか。Mさんは、私の一つ年上の幼馴染みでで、自宅は徒歩30秒のご近所様です。Mさんには、大変なご配慮頂き、内容は相当脚色して頂きました(^^;)。 ○「気仙沼でも5本の指に入るといわれるフラメンコギター」ですが、当時、気仙沼で、クラシックギターを弾く方は大勢いましたが、フラメンコギターを弾く方は、私以外には、2,3人しか居ませんでしたので「5本の指に入る」では、ちと不満の残る記述でした(^^;)。「非常に気さくで明るい」は、全く事実に反するもので、実態は「限りなくシャイで、人見知りで、根暗」でした。Mさんは、将来の弁護士稼業のためには「明るい」とした方が良いだろうと気を遣ってくれました。 ○一番の誇大表現は、「難聴を克服して」との見出しでした。当時は、聴力損失レベル30~40dbの軽度難聴で、克服するほどのものではなかったからです。しいて言えば、慢性中耳炎悪化による耳だれ・耳鳴りに苦しんでいたのは間違いなく、しかし、中耳炎を克服してでは、余り表現として,カッコウが宜しくなく、中耳炎の象徴として、難聴という身体障害的な用語を使ったものとおもわれます。まあ、種々の意味で身体障害者であることは間違いありませんが。 ○顔写真が修正されたものではと、甚だ失礼な感想を述べる方も居ましたが、合格前年で択一試験不合格であった昭和51年度司法試験受験申込用紙に貼り付けたものの控えに間違いありません。合格年の昭和52年度司法試験受験申込用紙に貼り付けた顔写真は、実物を正確に反映しない写りであったため、実物を正確に反映した前年度写真をMさんに渡しました(^^)。 昭和52年10月12日付三陸新報 昭和52年10月9日付河北新報 以上:1,401文字
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